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【波乱の少年時代】 |
「ぴらっと、来てはいよ(来てくださいね)」
熊本のテレビ局が制作する地元向け情報番組で、若手タレントと軽妙なやりとりを繰り広げる熊本弁のおばあさん。ばってん荒川さんが19歳にして扮し始め、50年近い芸能生活でずっと演じ続けている当たり役「お米ばあさん」です。
ばってんさんが芸能活動を始めたのは昭和30年、18歳の時。当時、全盛を誇った肥後にわかの一劇団「ばってん組」に入団し、肥後ばってんの芸名でデビューしました。
生まれは熊本市新町。父は漫才師の荒川九州男、母は村芝居などに出演していた三味線の弾き手という芸能一家でした。しかし、父は身ごもった母を置いて東京へ出奔。以後、女手一つの苦しい生活が続きます。のちに二度目の“父”ができますが、暮らしは上向かず、すぐカッとなっては手を上げる激しい性格に反発心は募るばかり。芸事を毛嫌いしていたこともあって、反発はいつしか憎しみへと変わり、その反動で非行の道へ入ります。
「親の金ば(を)ちょろまかしては学校も行かんで、子分ば引き連れて見世物小屋や映画に行きよったです」。そして、ついには小学生で少年院に送られるほど、心はすさんだものとなっていました。
この荒くれ者も、面会のたびに泣き崩れる母の姿に改悛。夜遅くまで花売りをして働く体を楽にさせてやりたいと中学卒業後、すぐに職に就きます。けれど長続きせず、仕事を転々。いくつ目かの仕事口となったカリントウ屋では機械に手を挟まれ、両手切断寸前の事故に遭ってしまいました。
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【事故が転機に】 |
何とか息子の手を助けたい。母の思いはお不動さん詣でに駆り立てます。熊本市郊外の金峰山にある不動尊に夜1時ころ、ばってんさんを連れて祈りに訪れては、滝に打たれる毎日。「100万べん(回)も祈ったごたる(ような気がする)」。その祈りが通じました。滝の水で傷の熱が完全に冷やしきれてもいたのでしょう。奇跡的に両手切断は免れたのです。これが転機になったのかもしれません。その後に働いた米屋で、手は動くものの重労働には耐えられない体だと実感。芸人への夢がふくらみます。
そんなある日、たまたま出会った肥後にわかの劇団「ばってん組」のメンバーから入団しないかと声がかかります。メンバーは荒川九州男の息子だと知っていたのです。
こうして「ばってん組」の一員となり、本格的に芸人としての道を歩み始めます。このころ、肥後にわかは熊本でのラジオ局開局と合わせて放送もされ、地元で大人気。あれほど芸事を嫌っていた父も「電波の仕事なら、よかろう」と、初めて許してくれました。
父に関しては忘れられないエピソードがあります。「劇団の公演で出た二合酒付きの弁当ば、みやげに持ち帰った時のこつ(こと)。父はものも言わんで、ただ一筋涙ば流して杯を傾けてくれたとです」。ずっと抱いていた憎しみが、すっと消えた瞬間でした。
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【お米(よね)ばあさん誕生】 |
「ばってん組」に入団して1年たったころ、早くも芸人として飛躍するチャンスがやって来ました。おばあさん役が回ってきたのです。日常のことをネタにする肥後にわかにとって、お人良しのおばあさんは欠かせない存在。喜劇役者、三木のり平さんが演じるおばあさんに感心していたこともあり、即、役づくりに励みます。そして、19歳の若さで「お米ばあさん」を生み出し、これを機に芸名も父の苗字をもらい、ばってん荒川に改めました。
お米ばあさんは大当たり。昭和38年には、東京・浅草の松竹演芸場をわかせていた「デン助劇場」に劇団が呼ばれ、2か月ものロングラン公演を経験しました。
もともと東京は、憧れの地。中学卒業後、東京で役者になりたくて2度ほど家出を試みますが、その度に母に諭され、やはり母を置いていくことはできないと断念した苦い思い出があります。だから、共演した漫才コンビ、Wけんじさんから東京で修業しないかと熱心にすすめられても、自分のホームベースは熊本と断ってしまいます。
ところが運命は皮肉。テレビの発達で娯楽が増えたこともあり、肥後にわかは衰退の道をたどって仕事は激減。そこで、生活のために当時流行していた民謡酒場で働くことにし、3年後には自ら演芸酒場を経営しました。この店に客で来ていたのが作曲家の北岡一義さんで、ばってんさんの歌唱力を見込み、歌手デビューをすすめます。再び、運が向いてきました。初のレコード「火の国一代」は大ヒット。熊本をはじめ、福岡や長崎の放送局で自分の番組ももつようになり、忙しい時は週に9本のレギュラーをかけもちします。さらに東京キー局の「見ごろ食べごろ笑いごろ」にレギュラー出演。人気は全国区になり、菓子「うまか棒」のCMで一世を風摩。NHKドラマ「早筆卯三郎」で、三木のり平さんとも共演します。また、念願だった大阪・角座で公演。関西の喜劇王、藤山寛美さんと知己を得ます。ポール牧さんの劇団にも呼ばれ、東京・新宿のコマ劇場の舞台も踏みました。この時代、東京に仕事のべースを移すこともできたという、ばってんさん。「でも、熊本ば大事にしたかったとでっしょうな」と、ふるさとへのこだわりは捨てませんでした。
今も昔も、出番が終わるたびに自分の芸を振り返り、映画や芝居をできる限り見ては観客の反応を探っているというばってんさん。「笑いは奥が深か。常に芸に磨きをかけんと」と話すその口からは「もっと熊本弁ば広げたかし(広げたいし)、熊本PRのお役に立てればうれしかですな」との言葉も出て意欲満々。間もなく芸能生活50周年。お米ばあさんはますます元気です。
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